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​好きとか嫌いとか

柿田真吾展

Shingo Kakita

Love It or Hate It

2017年8月18日|金|─9月3日|日| 

金・土・日のみオープン

12:00-18:00 

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アブサン唐揚げパーティ

Reception: Absinthe and Fried Chicken Party

8月19日|土| 18:00-

8

2017

inkjet print, acrylic on canvas

© Shingo Kakita.

8月の暑すぎる波さがしてっからでは東京在住の写真家 柿田真吾の個展「好きとか嫌いとか」を開催します。

もともとは技術力を駆使し厳密な撮影を行っていた柿田ですが、2012年の写真新世紀での受賞以降、興味は”写真の写真としての限界的成立”へと移っていきます。数々の機材の使用をやめ、主にiPhoneとスキャナーを使っての制作を開始します。iPhoneの画面をスキャン、迷惑メールのスクリーンショットを印画紙にプリント、画像の過剰なまでの加工など剥き出しの行為は暴力的な魅力を発揮する一方、写真史への介入とも読める大胆でいて理知的な作品を生み出します。

展示ごとに異なる作品展開を見せる柿田の特徴は「繰り返す」でしょう。イメージや作業の執拗な反復は時に瑣末な事象の中に潜む異物を炙り出し、さらにそれらを並置することで過ぎ行く時間やミニマリスティックな覚醒感を導入しています。

今回の個展はiPhoneスキャンシリーズを発展させた作品「8」をメインとした新作展になります。キャンバスにプリント転写されオプティカルな抽象絵画の様相を呈した画像群「8」からは、画像生成に対する作家の先鋭的な思考が存分に感じられます。

 

柿田の新たな展開をぜひ その目でお確かめください。

接触と読解のメカニクス――柿田真吾の新作

 

勝俣涼(美術批評)

 波紋のように幾重にもなった円が2つ接合され、そのフォルムは「8」の形をなしている。柿田真吾の新作「8」シリーズを、ひとまずごくシンプルに、こう観察することができるだろう。だがすぐさま、互いに軸のずれた複数の円が近づき遠のく一連の状況において展開される「目の回るような」旋回運動に注目しつつ、このきわめて肉体的な眩暈の感覚と、「8」という数字=記号の、情報としての非身体的な属性とを区別しておこう。

 さて、私たちが自身の身体を意識するのは、その恒常的な安定性が乱され、何かが不足しあるいは過剰となるとき、言ってしまえば良かれ悪しかれ何らかの状態変化をこうむるときだろう。そのような可塑的な肉体性を惹起する回転円盤の形象としては、よく知られるように、マルセル・デュシャンの《ロトレリーフ》という重要な先行例がある。ロザリンド・クラウスはこの旋回運動に、神経活動のエロティックな力動を読みとっていた。それはモダニズム絵画の観想的、永遠的、統一的な美という基準に、つまり脱身体化された純粋な視覚という概念に抵抗するものだった。

この手のデュシャンの作品を論じる者が口をそろえて言うように、回転円盤の運動は性行為を思わせずにはいない。私はまた、ここでのデュシャンの関心が、まさに視覚的なものの肉体化にあったということも指摘しておいた。彼はモダニズム絵画の脱身体化された視覚性(オプティカリティ)に異を唱え、眼に身体器官としての状態(つまり、エロス化する力に働きかけられる状態)を回復させたのである。眼が身体組織のネットワーク全体につなげられたことによって、この力は肉体的存在の濃密さや厚みのなかに湧き上がっていく。エロス化する力は神経活動のさまざまな状態に結びつき、時間とともに変化していく。なぜなら、神経組織の活動は時間的なもの、すなわち刺激と衰弱とが交替するパルス、保持(リテンション)〔=過去把持〕と放出(プロテンション)〔=未来把持〕が織りなす複雑なフィードバックなのだから。(*1)

 回転円盤のフォルムが生理的な運動と反応の回路を押し開くことに加え、さらに私たちは、柿田の「8」に介在する別の身体的次元を観察しておく必要がある。それはこの平面がスマートフォンの画面をスキャンし加工するプロセスを通じて産出されていることにかかわっている。つまりその表面は、その操作の痕跡、つまり指の脂や汚れ、指紋といったテクスチュアを保存しているのだ。こうした触覚的、身体的、生理的な肉体の次元は、スマートフォンのインターフェースという接触のトポスによって、あるいはスキャンという機械運動がフォトグラムの直接的な「光の接触」を類推させることによっても開示されるものである。

 しかしここで、「8」の支持体がキャンバスという絵画的伝統を踏襲するものであることに注目しよう。あるいは、「8」という記号的形象がそもそも、冒頭ですでに「目の回るような」肉体性から端的に区別しておいたような、質量をもたない「読まれる」標識=情報であることに留意しよう。そのうえで、先に述べたような触覚性/身体性にふたたび目を向けるなら、この「8」がある二重性を抱えた平面であることが明らかになる。それは絵画的なものをめぐるジャンル的な問題提起である(たとえば、写真的なプロセスであるスキャナの反映によって読み取られた指の移動の痕跡が、絵画的な筆触によく似た表情を備えている)とともに、視覚性=可読性/触覚性という問題でもあり、またそれゆえに距離化/距離の解消であるだろう(ある文字記号を読むためには、文字と眼のあいだに一定の距離を必要とする)。ジャンル的な画定や表象の記号的な属性に揺さぶりをかけるようなこうした手続きは、美術史的にはたとえば、ジャスパー・ジョーンズの「数字」シリーズにおいてすでに現れていたものかもしれない。

 とはいえ、「8」がスマートフォンをモチーフ/素材にしていることは示唆的である。というのも、スマートフォンを使用する身体の行動様式とは、「触りながら視る」というものであるからだ。考えてみれば柿田の作品において、触れること/視る=読むこと、物質/情報といった次元が錯綜する感覚は、自転車のサドルを反復的に撮影・収集・並列した《forever acid》(2012)を貫くものでもあった。そこでは一方に、それ自体肉体との接触面であるサドルの、性器や骨盤を呼び覚ましもするフォルム、てらてらとした光沢へのフェティッシュな没入があり、他方では、ベルント&ヒラ・ベッヒャー(ベッヒャー夫妻)のタイポロジー(類型学)という写真史的参照をおそらくは行ないつつ、産業デザイン的な形態のリサーチともいえる比較の体系、分類的な情報の一覧化がなされていた。接触的な欲望と、個々の対象から距離を置いた観察。ある特定の個体に対する固着と、法則化された手続きによる複数の個体の並列的展開。記憶と記録。そうした2つの局面がどちらか一方に収束するのでも、両者が幸福に溶け合って解消されるのでもなく、倒錯的に交配し続ける状況こそが、そこでは制作を駆動させる原理となる。

 

 

(*1)ロザリンド・クラウス「見る衝動(インパルス)/見させるパルス」、ハル・フォスター編『視覚論』、榑沼範久訳、平凡社、2007年、93頁。

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